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津地方裁判所四日市支部 昭和45年(人)1号 判決

請求者 山藤光子

右代理人弁護士 和藤政平

拘束者 山藤一也

右代理人弁護士 伊藤嘉信

被拘束者 山藤明子

主文

被拘束者を釈放し請求者に引渡す。

本件手続費用は拘束者の負担とする。

事実

≪省略≫

理由

一、請求者と拘束者とが昭和四一年一一月二一日婚姻し、両者の間に昭和四四年二月二〇日被拘束者が出生したこと、昭和四五年二月七日請求者が被拘束者を連れて別居し、以来同年一二月一六日まで請求者が被拘束者を監護養育してきたこと、同日拘束者が○○○市○○八丁目四五番地○○団地○号棟○○○号の請求者方から被拘束者を連れ去り、拘束者方で生活していること、請求者が昭和三八年三月日本福祉大学社会福祉学部を卒業し、同年四月から○○○市役所に勤務して現在に至り、月収約四五、〇〇〇円を得ていることについてはすべて当事者間に争いがない。

二、≪証拠省略≫によれば、次の事実が認められる。

請求者は、昭和一五年六月生れで、前記大学の学部を卒業後社会福祉事務所に社会福祉主事として勤め、後公民館主事に転じ現在に至っている。拘束者は、昭和一一年一〇月生れで、三重大学教育学部卒業後中学校教諭を勤め現在に至っている。

請求者と拘束者とは前記の頃婚姻し、拘束者肩書住所地に拘束者の母と共に同居して生活してきたが、昭和四三年四月頃金銭上の問題で拘束者が請求者に暴行を加え、この頃から主として金銭上の問題から夫婦の間が円満を欠くようになった。

そして、請求者は、前記のように昭和四四年二月二〇日被拘束者を病院で分晩し、同年三月上旬退院して被拘束者と共に請求者の実家に戻ったが、同年六月二八日漸く拘束者方へ帰った、その後請求者、拘束者共前記職業のため出勤するので、その間拘束者の母が被拘束者の面倒をみていた。

ところが、昭和四五年二月六日夜半再び金銭上の問題で請求者が拘束者から詰問されるや、請求者は翌七日被拘束者を伴い保健所へ行く旨の書置を残したまま実家に帰ってしまった。その後同年四月双方から津家庭裁判所四日市支部に離婚の調停が申立てられたが、親権者指定や慰謝料等の問題で合意に達せず、同年七月不成立に終った。右別居後拘束者から請求者に対し被拘束者を連れて拘束者方に戻るよう、直接又は人を介して申入れがなされたが、請求者はこれに応じなかった。

拘束者は、被拘束者の父親として、母親である請求者とひとしく被拘束者を愛育する権利と義務を有するとの考えから被拘束者を引取る決意をし、昭和四五年一二月一六日午前一〇時頃母と共に前記○○団地の請求者方に至り、請求者の出勤不在中に、被拘束者のお守をしていた請求者の母の意思に反して被拘束者を抱き上げて連れ去り、右事実を知った請求者が直ちに拘束者方を訪れても施錠して面会にも応じなかった。

その後拘束者は肩書住所地で母親及び被拘束者と共に生活しているが、右拘束者の母は現在六七才であって神経痛があり且つ胃が弱い等健康が勝れず、また請求者においてその後も拘束者方を再三訪れたが玄関に錠がかかり、被拘束者に合うことができなかった。

以上の事実が認められる。≪証拠判断省略≫

三、以上のように、拘束者が請求者の意思に反して適法な手続によらないで被拘束者を排他的に監護することはそれ自体適法な親権の行使とはいい難く、また被拘束者が二才未満の幼児であり、これまでの大部分の期間を母親である請求者の下で監護され、請求者の手を離れて監護されたことが殆んど無かったこと、拘束者の母が高令で健康も勝れないことその他前記各事情を総合すると、父親である拘束者の下で監護するよりも母親である請求者の下で監護するほうが被拘束者の幸福を図るゆえんであることが明白である(この点に関し、拘束者は、請求者側が経済的に困窮している事実を指摘して主張するが、右は婚姻費用の分担または養育費の負担の問題で解決すべきであって、右事実をもって直ちに拘束者において監護するほうが被拘束者の幸福であるとは解し難い)。

然らば拘束者の右被拘束者に対する拘束は権限なしにされていることが顕著であると解するのが相当である。

四、よって被拘束者を釈放して請求者に引渡すべきことを求める請求者の本件申立は正当であるからこれを認容し、手続費用につき人身保護法一七条、民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 米本清 裁判官 後藤一男 川田嗣郎)

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